スチューデンツ オブ パブリックスクール 3



―兄貴!何かの間違いだって!!水島はそんな、謹慎になるようなことする奴じゃないんだ!
バカがつくくらい、真面目なんだ!!本当だって!!―

和泉の言葉が頭の中を巡る。

例えどんなに水島の心情を慮(おもんばかる=考慮)ったとしても、水島が謹慎を受けるだけの理由は充分あった。

竹原夫妻の嘆願書がなければ、確実に水島は退学になっていただろう。

水島を信じて疑わない和泉に、何と言えばいいのか。

それともここでの事を、僕はまた話さず黙っているのだろうか・・・。

僕を支えてくれる人の横顔に、真正直な和泉の顔がたぶって見えた。

そんなに似ているわけでもないのに、ふとした時に二人の輪郭が重なるのはやはり兄弟だからなのだろう。



食堂から玄関口に着いたところで、先生は肩に回している僕の腕を外した。

「聡君、ちょっと待っていてくれるかい?」

「はい?あ・・・先生、僕ならもう大丈夫です。ゆっくりなら歩けますから、ひとりで寮に帰れます」

「そういうわけにはいかないよ。足を捻ってるんだろ・・・」

先生は端から僕の答えは求めていないようだった。なんの躊躇いもなく携帯電話のナンバーをプッシュした。

誰に連絡しているのかは、聞かずともわかった。

「もしもし・・・うん・・・すぐ来れるかい?・・・いまから夕食?それはかまわないけど、聡君が怪我して動けなくてさ・・・」

「・・・先生!動けないって、そんな大袈裟な・・・あの・・・」

「僕はこれから用事があって・・・うん、聡君には少しひとりで・・・ああ、そう、悪いね。じゃ、谷口も一緒にね」

パクッと携帯のフタを折りたたんだ先生は、至極当然の笑顔を僕に向けた。

「良かったよ、聡君。渡瀬が谷口とすぐ来てくれるってさ」



僕は玄関の上がり口に腰を下ろして、先生は花台の花の手入れをしながら、渡瀬たちを待った。

仄かに香る甘い匂い・・・ここにもヤマユリの花が。

「今が時期なんですね。至るところでヤマユリの花を見かけます」

こんな時にのん気に花のことを尋ねるのもどうかと思ったが、たぶん先生がまともに答えてくれるのは花のことだけだ。

さっきの携帯電話の時のように、この状況にあってそれ以外のことは、何を言っても不毛(ふもう=みるべき成果がないこと)に近い。

「うん、それもあるけど・・・。ヤマユリはカサブランカほどの艶やかさはないけど、
柔らかな色合いでどの花と合わせてもちゃんと溶け込んでいるだろ」

好きなんだ・・・と目を伏せた先生に、ふと花屋での和花さんと水島を思い出した。


―僕ですか・・・そうですね・・・僕はこのヤマユリの花束が好きです―


「・・・水島も、ヤマユリの花束を和花さんに勧めていました」


顔を上げた先生は、驚いたふうもなく黙って微笑んだ。




「すみません!先生!・・・聡、大丈夫か!!」

慌しく玄関扉が開いて、渡瀬が入って来た。その後ろに谷口が続いている。

「渡瀬!あの・・・」

「やあ、早かったね。谷口は聡君を医務室へ連れて行ってやってくれるかい。渡瀬、ちょっと」

ハァハァと息も整わないままの渡瀬が心配そうに僕の方に歩み寄ろうとするのを、先生は服の裾を引っ張って自分の方へ引き寄せた。

何か指示を与えているようだった。

渡瀬はその間に息を整えつつ二度三度頷くと、先生の指示に従うように食堂に入っていった。



「大丈夫か、聡。足、捻ったって?・・・何したんだよ」

「谷口・・・」

「ん?・・・ああ、まあそうだな・・・聡だっていきなり説明のしようがないよな」

谷口は思うほど不機嫌そうな感じでもなく、むしろ気遣う笑顔を見せた。

「ごめんね、夕食まだなんだろ。整理がついたら、話すよ。・・・三浦や流苛君も関係しているしね・・・」

「三浦と流苛も・・・?そういや、三浦どこ行ったんだ?食堂にはいなかったな。
俺はちょうど食べ終わっていたから良かったけど、渡瀬がなぁ・・・」

そう言って、谷口は苦笑った。

「三浦は和泉とカウンセリング室で謹慎してるんだ・・・ケンカの罰で」

「ケンカ?本条と?・・・バカかあいつは」

呆れる谷口の肩を、渡瀬と話し終えた先生がポンと叩いて急かした。

「谷口、何してるんだい。早く医務室に行かないと、聡君が夕食に間に合わなくなるだろ」

「あっ、はい。聡、つかまれよ」

「う・・うん・・・」

・・・渡瀬に聞かれなかっただけが救いだった。

これで大丈夫だねと、先生は安心した顔を見せて宿舎を出て行った。



「あいつの用事って、三浦たちのことか?」

谷口は先生が出て行った途端、呼び方があいつに変わった。

だがそう呼ぶからといって他の二人ほど、先生に対するあからさまな不満は含まれていなかった。

「・・・たぶんね。先生が行くまでは部屋で謹慎だから」

「三浦は午後は選択授業だったから、流苛といたはずだけどな。流苛もいるのか?」

「流苛君は寮の自分の部屋にいるよ」

「ったく・・・いつもわけわかんねぇことに駆り出されるって文句言ってる奴が、
当事者になってどうするんだ。・・・聡、痛くないか?」

謹慎と聞いて三浦と流苛の様子に気がかりを見せた谷口だったが、取りあえずいまは僕の方の心配を優先してくれたようだった。

あっさりと話を切った。

「大丈夫だよ。・・・その・・・先生が大袈裟に言ったみたいで・・・」

「あははっ、聡君だもんな」

「谷口まで、やめてよ」

「冗談だよ。渡瀬だろ、気にするな。あれは性分だ」

とても軽口の叩ける雰囲気ではなかったのに、三人の中では比較的穏やかな谷口の存在は、時として周囲のトゲトゲしさや重苦しさを取り払った。

谷口も三浦も渡瀬も、時に違えたこともあったけれど、幾多の思いを分かち合って来た仲間だ。


仲間・・・水島が僕に言ったことは、果たしてそうなのだろうか。


―・・・水島、残念だよ。君がそうなるまでに、どうして誰にも相談しなかったのか・・・。
僕はともかく、和泉たちと一緒に過ごして来た年月は何だったの―

― 一緒に過ごして来た年月・・・お坊ちゃんたちとね。・・・俺には重荷にしかならない―


和泉たちと過ごしてきた年月。重なり積もる思い出は、水島にとって重荷にしかならなかったのだろうか。

・・・そうじゃないことを、君はもう気がついているかもしれないね。


―先生・・・俺は、ここで・・勉強がしたい・・・―


君の、胸いっぱいに広がる熱い思い・・・その言葉に含まれるものを。


僕は何を悩んでいたのだろう。

今回のことを和泉に話すのは僕じゃない。

水島自身だ。





宿舎の玄関口を出たところで、突然背後から渡瀬の大声がした。

「谷口!!!」

渡瀬は食堂から、一目散に後を追って来たようだった。

イラ立ち混じりの声音に、谷口はため息をつきながら立ち止った。

「・・・聡、何かまたやっかいそうだな。はあぁ〜・・・最近は、先生だけじゃないんだぜ。
渡瀬も何とかしてくれ・・・」

谷口のため息を証明するように、渡瀬が詰め寄った。

「谷口!!先生は!!?」

「とっくにいねぇよ。てか、いたためしあるか?あ〜・・・文句は三浦に言えよ。
あいつも首突っ込んでるみたいだからな」

「くそっ!どいつもこいつも・・・」

谷口に横を向かれてしまった渡瀬の視線が、僕に向く。

「・・・・・聡、あいつは誰だ。どこかで見た顔だけど」

「・・・二年Aclass水島司。委員会だよ。前に話しただろ、僕の代理で出席してもらったって」

「そうだったな。・・・若干人相が変っていたんで、思い出せなかった」

これには無言で頷くしかなかった。

渡瀬の言う水島の人相の変化とは眼鏡があるないではなく、先生の鉄拳で腫れ上がった頬を指しているのはあきらかだった。

言葉を探しあぐねている僕に、渡瀬はふうっと息をひとつ吐いた。

「・・・聡と同じクラスの奴だからって、聡に言っても仕方ないな。おい、谷口」

「俺に言っても仕方ないぞ」

にべもない谷口の返事も、気持ちを切り替えた渡瀬には通用しなかった。

「医務室に行くんだろ。ついでに消毒液とガーゼ、冷却シートと打撲用の塗り薬を貰って来てくれ」

「ええっ!ついでって、お前、俺に往復させる気かよ!」

「いやなら代わってやってもいいぞ」





全学年が共有する施設のほとんどは、オフィスセンター内にある。

医務室も、設備からすれば総合病院に近い。

受付で学年、クラス、名前と簡単な症状を申告して、待合室のソファで名前が呼ばれるのを待つ。


「それじゃ、もし聡の方が早く終ったら待っていてくれよ」

「もう・・・大丈夫だって。ちゃんと歩けてただろ?戻って来なくていいよ」

同じ年なのに子供みたいに世話を焼かれることが妙にこそばゆくて、わざと冷たい言い方をした。

「そういうわけにいかないだろ、聡君?」

「・・・っ、谷口!」

「あははっ、じゃ行ってくる」



本当に敵わないよ・・・胸が熱くなった。



胸いっぱいに広がる熱い思い

躓くたびに躓く無形の石ころを

そっと取り除いてくれる友の手

差し伸べられるその手に手を重ねれば

清らかに深い 感謝の日々

ありがとうと 僕は呟く




医務室は校医の川上先生の他に、病状や症状によって何人かの専門医の先生がいた。

川上先生の診察室はカーテンが閉まっていて、診察中のようだった。

僕は体の不調ではないので特別川上先生の診察を受ける必要はなく、別の専門医の先生に診てもらった。

捻った足首は力さえかけなければそんなに痛むこともなく、触診と軽いシップを貼ってもらっただけで診察は終った。


待合室に戻るとやはりまだ谷口はいなかったが、見知った顔が僕の名前を呼んだ。

「おっ、聡!久し振りだな!」

「真幸(まさき)!どうしたの!?こんなところで・・・あっ・・もしかして御幸(みゆき)の・・・」

「ん・・・ちょっとね、具合悪そうだったから。聡は・・・マスク、風邪か?」

「ああこれ。違うよ、マスクは予防なんだ。僕は元気だよ、足を捻っちゃって・・・」

そんなことを話していたら、川上先生の診察室のカーテンが開いた。

「終ったみたいだ。そっか、捻挫するほど元気になったか。良かったな、聡」

真幸の笑顔の先に、もう一人の笑顔が見えた。


「聡・・・?聡!久し振りだね」

「御幸・・・」


僕の前に並んだ二人の元級友。


―高等部3年 加藤 真幸(かとう まさき)・兄―

―高等部3年 加藤 御幸(かとう みゆき)・弟―


「そんな顔するなって。どうってことない、微熱だよ。
熱には慣れっこだけど、テストが近いからね。聡は・・・元気そうだね」

「わかる?そんなふうに言われたのは、川上先生以外御幸がはじめてだよ。
マスクをしているだろ、これだけで半病人みたいに思われてる」

「ごめんね。真幸は単純だから、見たままを言っちゃうんだ。悪気はないんだよ」

「単純って何だよ!オレは聡の心配を・・・」

「こらっ!君たち、声が大きい。どこで騒いでいるんだ」

待合室で久し振りに会った二人に、つい話が弾んで看護士さんに注意されてしまった。

「すみません!おい、行こうぜ・・・」

「真幸は声が大きいんだよ。だから待ってなくていいって言ったんだ」

御幸に冷たく睨まれて、真幸はまたやってしまったとばかりに頭を掻いた。

「真幸ばかりのせいじゃないよ。御幸は相変わらず、真幸には厳しいね」

「そうかな。真幸はあまり堪えていないみたいだけど。・・・聡は、帰らないの?診察もう終ったんだろ?」

「うん。だけど、谷口を待ってるんだ。僕も、いいって言ったんだけど・・・真幸と同じだよ」

ふふっと冗談交じりに笑うと、真幸は照れた顔で目を逸らした。

御幸はそんな真幸にはまったく無関心だった。

「聡はこのあと、谷口と寮へ帰るの?」

「このあと?ん・・そうだね、一度寮へ帰るよ。
谷口が夕食まだなら一緒に行くつもりだったけど、済んだって言っていたから」

「何だ、それなら俺たちも夕食まだなんだ。聡、一緒に行こうぜ。
谷口には俺たちと行くって、連絡すればいいだろ」

御幸も同じことを考えていたのか、今度は真幸の言葉に賛同するように頷いた。


神経質な御幸は真幸の大雑把なところが勘に触るらしいのだが、そこは何を言っても兄弟なので、遠慮がないだけでけして仲が悪いわけではなかった。


「あ、でも携帯・・・いま持ってないんだ」

携帯は鞄の中だった。その鞄は宿舎の食堂に置いたままになっていた。

あの状況では、鞄どころではなかった。幸い明日が日曜日なので、落ち着いたら取りに行こうとくらいに思っていた。


「・・・谷口だろ、僕が代わりに連絡しておいてあげるから。真幸、肩を貸してやれよ」

「平気だって!治療してもらって、痛みもないんだ。ほら、ねっ」

慌てて立ち上がって拒否すると、御幸は真幸に見せる冷めた顔とは裏腹の柔和な顔で、おどけるように言った。


「聡に断られたら、僕が真幸に担がれそうなんだ」



真幸と御幸は双子でありながら、体格も気性も全く異なっていた。

同じ名字であっても兄弟と知らなければ、単に同姓の他人同士と思ってしまうほどだった。

背が高く、気さくな性格から誰といても笑いの絶えない兄の真幸と、大人しいけれどはっきり物を言うしっかり者の弟、御幸。

同級生の間では名前で呼び分けられている、加藤真幸と御幸は二卵性双生児だった。


結局真幸の肩を借りて、医務室を出た。


しかし実際は御幸の方が顔色も悪く、時折ゴホン、ゴボンと咳き込むほどだった。

案の定御幸は医務室を少し出たところで、食欲がないので寮へ帰ると言い出した。

「御幸、お前昼も食べてなかっただろ。具合が悪くなって当たり前だ。少々無理してでも、食べろ」

「うるさい。傍でつきまとわれるほうが、よけい悪くなる。
聡、ごめんね。この辺りだと、もう携帯使えるよね。谷口にはちゃんと連絡しておくから」

御幸はポケットから取り出した携帯電話を手に、ここで失礼するよと、僕たちから離れた。


「・・・真幸、行ってやらなくていいの。御幸、顔色あまり良くなかったよ」

「いいさ、ワガママめ、勝手にしろ。あいつの顔色が悪いのは、メシ食わねぇからさ。行こうぜ、聡」

真幸もそれ以上言っても無駄と、承知しているようだった。



食堂には、ギリギリで間に合った。

「ああ、腹減った!何しようかな・・・」

真剣にメニューを選んでいる真幸を見ていると、渡瀬を思い出してしまった。

あの状態の水島を任されていることで、先生からどれほどの信頼を受けているかがわかる。


・・・それでも君は拗ねた顔をして、僕のことを「聡君」と、言うのかな。



「聡・・・?ボーッとしてんなよ。お前まで食べたくないなんて、言わせねぇぞ」

「言わないよ、食べるって。真幸がメニューの前に顔をくっつけてるから、見えないんだろ」

「そっか、ごめん。ちぇっ、御幸がいないと思ったら、聡に言われたよ」

真幸はおおらかだった。さっきの御幸とのことも、冗談にこそすれ愚痴ることはなかった。

食事中も、真幸は良く食べて良くしゃべった。

「俺、谷口と同じDなんだぜ。・・・これって他の奴らも言ってんだけど、あいつ何となく変わったよな」

真幸は箸を持つ手を一瞬だけ休めて、考える仕草をみせた。

「聡なら知ってるだろうけど、あいつ謹慎になっただろ。それからだな、こう・・・何ていうか一生懸命なんだ。
前は適当に力抜いてるようなところがあったんだけどな・・・・」

謹慎後も受験勉強の合間に何かと先生に呼び出され、そのうえに流苛のことを三人で話し合い・・・。

力を抜く暇もない谷口は、そんなふうにクラスメートたちに映っていたようだった。

そうだとしたら、それは谷口だけでなく渡瀬や三浦もそうだろう。

しかし僕がそれを話すわけにはいかなかった。

「真幸がそう思うなら、そうだよ。きっと他の二人もね。三人とも懲りたんじゃないの」

「ははっ、聡もけっこうきついよな!谷口に言っといてやるよ」

真幸は谷口と仲が良いのか、愉快そうに笑った。

彼らと同じ学年の時は、僕はどちらかというと御幸と仲が良かった。

御幸は前々から病気がちで、熱を出したり風邪を引いたりすることが多かった。

僕は発病とは関係なく、元々あまり運動は得意ではないので、図書館やレストルームで過ごすことが多かった。

御幸とはよくそこで一緒になった。本の話をしたり音楽を聞いたり、試験前は勉強を教えてもらったりもした。

御幸は授業を休むことも多かったが、成績は渡瀬たちと同じ常にトップクラスだった。

「御幸は?御幸もD?」

「御幸はAだよ。ん〜・・・っと、渡瀬とかと同じだな。そうそう、あいつも謹慎組みだな」

真幸はまた愉快そうに顔を綻ばせた。



夕食が済むと、部屋まで送るという真幸の好意を御幸ばりの口調で遠慮して、寮の入り口で別れた。






君は三年生の区域へ

僕は二年生の区域へ

違う方向へ進んでも


「またね」

「おう、またな」


そのひと言が

僕たちを繋げているんだね

深く心に響く

大切なひと言




ようやく部屋に帰ったのは、陽もすっかり暮れた頃だった。

制服の上着をハンガーに掛けて、ベッドに腰掛ける。

目まぐるしかった今日の出来事。でもまだ終ったわけじゃない。

こうして僕は部屋に戻ってきたけど、和泉の部屋は鍵が掛かっていた。

先生は水島を渡瀬に任せて、三浦と和泉の謹慎を解きに行ったはずだ。

時間的に遡って考えても、もう帰って来てもよさそうなのに・・・。

連絡を取ろうにも、携帯がない。

仕方なく、明日いつ鞄を取りに行こうか・・・そんなことを考えていたら、

――コンッ、コンッ・・・

部屋のドアをノックする音がした。――和泉!?

「和泉!!」

「・・・・・・悪いな、俺で」

「渡瀬!ち・・違うよ!?渡瀬のことも、すごい気にしていたんだよ!?」

ただでさえ機嫌が悪そうなところに、和泉の名前は火に油を注ぐようなものだった。

「そうか、嬉しいよ。ほら、鞄」

渡瀬はちっとも嬉しくない顔で、鞄を突き出した。

「わざわざ届けに来てくれたの!ありがとう!明日取りに行くつもりだったんだ」


「・・・聡君は、足を怪我しているからね」


渡瀬、やっぱり君は・・・・・・思わず笑いが零れてしまった。


どれほど先生に信頼を受けていても、やっぱり君は拗ねた顔をして「聡君」って言うんだね。


真っ赤な顔で黙ったままの渡瀬の手を引いて、部屋に招き入れた。

「夕食は?何か食べたの」

「いや・・・食堂も間に合わなかったから、先生がパンをくれた」

渡瀬はローテーブルの上にパンの入った袋をボソッと置くと、テーブルを引き寄せベッドを背もたれにして座った。


「へえ、先生も気にしてくれていたんだね、渡瀬が食べていないこと。
飲み物はカフェ・オ・レしかないけど、いい?」


冷蔵庫からパックのカフェ・オ・レを手に、渡瀬と向き合う形で座った。

渡瀬はさっそくパンを食べていた。パンは玉子とハム、コロッケの二種類の調理パンだった。

「おいしそうだね。先生、わざわざ渡瀬のために買って来てくれたのかな」

「・・・これ調理パンだろ。消費期限が今日中なんだ」

渡瀬は二個目をほお張りながら、淡々と言葉を続けた。

「先生は綺麗な柄の布に包んだ弁当、持ってたからな」

「和花さんだね!夜食の・・・」

「ああ。・・・で、何か言ったか?聡」

ペロリと平らげて、パンの袋も即ゴミ箱に捨てていた。

それ以上渡瀬に、先生の話は出来なかった。



「ところで渡瀬・・・水島君のことだけど、どうだった?」

パン二個では夕食の代わりにもならないが取りあえずの空腹は凌げたようで、渡瀬はようやく落ち着いた表情を見せた。

「どうって、顔と尻以外は普通さ」

「もうっ・・・他に言い様はないの」

「言い様って、俺の方が先生より遥かに正確だぞ。先生は俺になんて説明したと思う?」

先生という言葉が出るだけで、条件反射のように渡瀬の眉間が寄る。



宿舎の玄関口に到着した渡瀬を、先生は待ったなしに食堂の入り口まで引っ張って行った。

―渡瀬、食堂の椅子やテーブルがちょっと乱雑になってるから、元に戻しておいてくれるかい。
掃除のおばちゃんがうるさいんだ―

―・・・はい―

―それとね、中に生徒がひとりいるんだけど、部屋に連れて行ってやって欲しいんだ―

―生徒・・・謹慎中の生徒ですか?―

―そうだよ。三階の君と流苛がいた部屋だよ。一ヶ月もいたんだ、懐かしいだろ―



「肝心なことは言わないくせに、余計な言(こと)は多いんだ」

渡瀬はその時の様子を話している最中にも、思い出すと腹が立つのか愚痴のような独り言を零した。



―・・・連れて行くって、怪我しているんですか?それだったら、医務室の方が・・・―

―その辺の判断は、渡瀬に任せるよ。それじゃ、頼むね―



「部屋に連れて行くってところで、ある程度予感はしたけどな。・・・それでも驚いた」



渡瀬が食堂に入って行くと、テーブルを支えに上半身を預けるような格好で水島が服装を直しているところだった。

水島は委員会で面識のある渡瀬を覚えていて、驚いたように名前を呼んだ。

―・・渡瀬・・さん・・・―

水島の大きく腫れ上がった顔を見た渡瀬は、いったんは部屋を飛び出して先生を呼び戻そうとしたが、すぐにそれが無駄だと悟ると再び食堂に戻った。


―お前・・・いったい、何したんだ―

―・・・・・・恐喝です―

―・・・割に合わないってことだけは、わかっただろ。そら、つかまれ。部屋に帰るぞ―

―どうして渡瀬さんが・・・―

―さあな。・・・眼鏡、掛けられるか?―

―はい。・・・すみません、こんなところに・・・―

―こんなところ・・・か。ひとつだけ確かなことは、俺がここに詳しいからだろ。
三階のお前の部屋に一ヶ月もいたからな―


もう一度すみませんと言った水島の顔は、嬉しそうだったのか泣きそうだったのか、渡瀬には判別出来なかった。



「部屋で手当てしてやってたら、あいついろいろ話しかけてくるんだ。話していて改めて思ったよ。
俺たちはこの学校の生徒なんだってな」

「渡瀬・・・うん、忘れちゃいけないんだね」


この学校の校訓の中で学ぶ誇りを。


「水島君のことは、安心したよ」

「だから普通だって言っただろ。顔と尻以外は落ち着いたもんだ」

渡瀬はキューッとカフェ・オ・レを飲み干して、クチャッとパックを握り潰した。

水島がどこまで渡瀬に話したのかはわからないが、いろいろ話しかけてきたということは、渡瀬がしっかりと水島の思いを受け止めて聞いてやっていたからだろう。

先生が渡瀬に信頼を寄せる理由がわかる気がした。



渡瀬の部屋に飾られている、油絵で描かれた白い八重の木瓜の花。

目の前の渡瀬に、凛と咲くその姿が指導者≠フ花言葉と共に重なった。





「さて・・と、俺はこれで帰るけど・・・」

渡瀬は腰を上げながらさもついでのように、もうひとつの気がかりについても教えてくれた。

「あいつは待っていても、たぶん今日は帰って来ないと思うぞ」

「あいつ?・・・ああ、和泉のこと!?」

渡瀬は和泉を本条とは呼びにくいのか、未だ名前で呼んだことがなかった。

「三浦は寮へ帰ったみたいだけど、あいつは先生と宿舎に来てたよ。泊まれって言われてたな」

「そうなんだ・・・。あっ、だけど携帯があるから助かったよ。やっぱり手元になくちゃ、不便だね」

携帯さえあれば、連絡は取れる。

和泉も三浦も、明日には落ち着いているだろう。


「谷口にも連絡しておいてやれよ」

「谷口にも?」

「ああ、気にしてたぞ。聡のことからかいすぎて、怒らしちまったのかなって。
医務室に戻ったらいなかったって」


「えっ?」


谷口に連絡が行っていないなんて、思いもしていなかった。

御幸はポケットから携帯電話を取り出して、間違いなく僕に言った。


―聡、ごめんね。この辺りだと、もう携帯使えるよね。谷口にはちゃんと連絡しておくから―



確認までしていたのに・・・。







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